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つよいつよいうそつきの短歌
 おひさしぶりです。バレンタインに向かうこのごろの日々はツイッター上で盛り上がっている「バレンタインBL短歌祭り」を楽しんでいます。(主に)BL愛好家の人びとがバレンタインなBL短歌をどんどんつくって萌えを共有したり戦わせたりしようぜっていう企画です。この企画に関して学生短歌のお友だちとのやりとりがあったのだけど、それについてこうやってブログを書きます。最終的にはじぶん語りが始まります。てへぺろ。

 最初にツイッターでリアルタイムにおこなったじぶんの反応を書きます。論点がずれてる部分もあるのだけど、まあそのまま。

百合短歌つくることについてはまえにちょっと書いたけど、BLについてもおなじようなかんじ。
 →そもそも百合短歌を作ろうというとき、それを百合に見せるためにしている、ことばやモチーフに女性性を発させること、自体、自分ではふだん歓迎していないことで、百合短歌づくりは楽しいけどすごく自己矛盾。
 →はっきり性別が描かれてなければどんな短歌だって百合っていいじゃんってもちょっと思ってるから、わざわざそうやってことばにー性性をつけることは、ふつう歌のなかに薄まって平和にしている性の別を、わー、起こしてしまってるだけなんじゃねーの的な。
 →でも、それが恋愛の歌の場合、百合のつもりで書いて異性愛の歌って見られるのは嫌だったし、俺が言わなかったら百合って想定すらしないひとっているんでしょ、知らしめたろうって気持ちもあって、結局そういうかんじに百合短歌を作ってます。
 →そして自分がわざわざ女性性を放つためにつかった言葉たちに対して、見つめるひとたちが、どの性別もかんじないようなことになったらいいなあ♡ とかね。
https://twitter.com/bit_310/status/299905715739447298
でもBL短歌タグをつけてツイートするとき、ふだん短歌のテキストだけにがんばってもらうぶんを、「BLっていう前提ははじめからこみで読んでね」とか「萌え補正入ってくれるでしょう」って、ちょっと甘えたつくりをしちゃうので、もっとレベルあげていきたいものです。
https://twitter.com/bit_310/status/299906113132969984
まあBL短歌タグも他の相聞歌もだいたい百合だと思って読んでますけどね。
https://twitter.com/bit_310/status/299906268808765440
いま短歌のみんなが「BL短歌」「百合短歌」についていろいろ言ってておもしろいんだけど、この「〜短歌」って呼んでるのはタグ付けされてお祭り参加しますのおめんをかぶって踊ってる短歌たちのことで、きっとほんとはこの世のどんな短歌も百合短歌でBL短歌で非恋愛短歌でヘテロ短歌だね。すてきだね短歌。お祭り参加用のおめんはかぶった時点で「じっさいの私とは違う姿です」の表明と思うので、作中主体と短歌の関係が超わかりやすくなっちゃうことを責められても、踊る側としては「えっだから?」って気もしちゃいます。そういう部分がタグはずるいけど、気持ちよいとも思います。作者の性指向に関係なく、百合のおめんをつければそれは百合だし、カミングアウトしてないセクマイが堂々とセクマイとしての台詞をおめんのキャラクタに言わせられるしね。詩を作ること自体があらゆる性別を超えられると思うけど、タグで表明しちゃうことですごくそれが楽だったりもするだろうね。もちろん踊るのなら踊らないひとから見ても美しく踊りたいし、見るひとが救われる踊りがいいけど、踊る本人がまず救われてもオッケーよね。比喩でごまかしたけど短歌すてきだからみんなそれぞれのやりかたで続けたいね。
※ハッシュタグであらわされる「BL短歌」「百合短歌」のふたつはそんなに似た存在じゃない
https://twitter.com/bit_310/status/299933420996411392
https://twitter.com/bit_310/status/299933443268157440
https://twitter.com/bit_310/status/299934041896001536
https://twitter.com/bit_310/status/299934726515474432
https://twitter.com/bit_310/status/299935125133742083
https://twitter.com/bit_310/status/300006949783740417

 発端は@lysblanc_yurieさんのツイートで、だいたい「 BL短歌が盛り上がってるから見てみたけれど、短歌としてみると完成度は高くない 」というような内容。BLについてやBLを表現することについて言おうとすると、それらについてまだ不勉強と思うし、ジェンダーとかセクシュアリティとかむつかしいなあということに触れなくてはいけんと思うので、触れられず、いまはたとえ話とします。異性愛を中心にするありかたについての云々は、短歌だけじゃない問題だろうし。
 たとえに無理がある部分もあるし、たとえにたとえを重ねてしっちゃかめっちゃかなのだけど、察してください。

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※実際のロシアとか、ロシアでつくられてる短歌とは、まったく無関係です。

ハッシュタグで"ロシア短歌"が流行しているようだから見てみたけど、句ごとに一字空けがあったり短歌に不慣れな印象だし、"ロシア"と名乗っているのに内容は舞台が日本でもいいようなものが目立つし、短歌としては拙い」っていうツイートがなされました。
 しかし私たちロシア短歌をつくるロシア愛好家たちにとってこのとき重要なのは、あるのかわからないロシアらしさたるものを表現することでなく、ロシアが舞台だということそのもので、それはすでに前提として共有済みのものなのでした。そして「ロシアらしさ」と呼ばれるようなものがこの世にあるように言われることは、なんだか好きなロシアを型にはめこまれて貶められているようにも見えて、誇りが傷つくような思いもする。暴力的とかんじる。そういう「らしさ」みたいなのが嫌でロシア好きをやってる部分もあるのにそれを表現しろだなんてまじジレンマだし。もちろんそういういろんな懸念を抜け出したうえで、これはロシアだとしか言いようがないかつ美しいものが作れたら、嬉しいなっても思うけれど。
 加えてこれは"ロシア萌え"を共有するためのお祭りなのに、「短歌として」の基準でどうこう言われてしまうと、せっかく手にした表現が息苦しい。
 句ごとの一字空けについては、ないほうが句またがりとかできるし楽しいから、その通りですって思う。

作者がロシア在住であることを公言している者でない限り、"ロシア短歌"という注意書きをつけることで作者は"作中主体は自分ではない"ということを非常に簡単に読者に了解させることが出来てしまう、よくないと思う」というツイートもありました。
 これに対しては「うんそうだけど、それがなにか」というかんじ。住んでいるところがどこであったって、ハッシュタグ「ロシア短歌」はお祭りの場で、「ロシア短歌」タグをつけることはおめんをつけること。「じっさいの私」の住んでいるところを隠す「ロシアに住んでいる私」のおめんです。それを自分からかぶって踊っているのだから、その選択を悪いと言われてもどうしようもない。短歌自体がだれか「私」のおめんをかぶることに似ているけど、やっぱり「短歌というおめん」だけでは「おめんに描かれた私」と「その下にいるじっさいの私」は結びつけられやすすぎて恐い。タグは手軽すぎてずるいのかもしれないけど、こんなに手早く「じっさいの私」と「おめんの私」やそのふたつの「私」の住処の設定を切り離して、自由に振る舞えるのは、こんなに楽しい。「私」だけでなく短歌自体の自由の幅も広がるような気がする。

 いまのハッシュタグ付きロシア短歌の「前提のもと、わたしのある種理想のロシアとあなたの理想のロシアを見せ合って、同じだねって思ったり、あっこれも萌えるって発見したりするのがまず楽しい。上手にできた気がしたり、上手いと思える歌を見たときはさらに楽しい」かんじと、短歌のひとの持っている「生身の自分でしかできない切り取りを自分でしかできない表現であらわして、前提をもたず、だけど説明し過ぎず、伝えなくちゃならない」かんじはだいぶ違うなあって思う。ハッシュタグ-ロシア短歌が続いて行くためには、楽しいだけじゃなくって、きっとなんらかの基準も必要で、そのもとで磨かれなければならん。淘汰されて生き残る。だけどまだその基準を短歌のひとびとの持っているものと同じにするかどうかはわからない。
 ロシア萌えは「ロシアという舞台があって、そこに生きる」という箱全体を楽しむ部分もあるのだから、描かれた「私」の視点の切り取りを重要とする短歌ちゃんとは切り込みかたの違いもあります。短歌の得意だった虚構にしろ作者と重なるにしろ一人称の「私」とはちがう見所のありかは短歌でもおもしろく描けるかもしれない、短歌の一人称とみじかい景色を切り取るやりかたはおめんの有無にかかわらず「萌えるロシア」についての新しくて手軽な表現方法としてもっとやっていけるかもしれない。フィクションのロシアなのだからとコミックに描いていくのか/短歌が一人称だからでてくる「実感」みたいなものって、とか。他にもいろいろのちがう部分が、なんかやべえ化学反応をおこして、おもしろくなるかもしれないし、うん、なるといいなあ!
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 っていうことを考えていて、からのじぶんについて。
 突然ですが私は相聞歌([あなた]と[わたし]の恋愛の短歌)が好きじゃないし、あんまり作りたいって思わない。きっと恋愛に関してよう言い表せない複雑な思いを抱いているのが原因だけれど、だけど題詠のときはどんどん相聞歌で攻めるし(そうしたら恋愛に肯定的なみなさんは「共感」票をいれてくれるでしょうっていう上から目線のもくろみがある、ごめんなさい)、「BL短歌」ハッシュタグのときも題として恋愛をもらったんだからしかたねえなあって嬉々として相聞ツイートをしています。「BL短歌」ツイートをハッシュタグで投稿することで虚構の主体を簡単に呼び出し、じぶん自身で語ったということにはしたくない恋愛について言わせているのが私です。ハッシュタグで呼び出される架空の主体は、そうじゃない虚構の主体よりもじっさいのじぶんとの距離があると思って、とても便利。
 前提としてのハッシュタグとても便利、すごい。
 けど、それってできるのはハッシュタグだけなのか? これはフィクションです、じっさいの作者の主張とは同じところもあるけど違うと見てくれたほうがわかりやすいでしょう、みたいに言うのはハッシュタグだけ?
 そして私は折句づくりが超好きです。折句すごい。やばい。おもしろい。折句についてずるいって言われたとき「でもべつに短歌や他者に不真面目に向き合ってるわけでないし、折句っていうかたちがツンデレのツンなのだから、デレでは愛なんですよ」みたいに思っていました、ごめんなさい。でも、やっぱりずるいという気がしてきました。折句は最初に黙っていながら「は〜いじつは作り物でした〜」ってそうとわかったひとにささやく。作者の私がどう思っていようが読者にとってそれは同じです。そして内容や韻律についての作者の私の責任を、自動的に軽くしてくれる。韻律が乱れている? 折句だからでした〜。内容がヨクナイ? 折句だからでした〜。

さかなごめんね。お前を何度も詩に殺しあたしは祈りの気分でいます

 って私は短歌で言っているけど、折句のなかでだったらごめんねとも言わずに何度だって魚を、それも残忍に殺しちゃうんじゃないのって思う。BL短歌タグを付けて恋愛のふたりを気軽に心中させる私が。ハッシュタグは見えるから「"虚構ですと表明している"ことの表明」も兼ねていて、「これをフィクションとして生み出したのは私です」と言うけど、折句はそういう表明もないから、「歌自体に対する責任」も「歌をつくったことについての責任」もうやむやにしてくれて、しまう。
 気がする!

 から、私はつよいつよいうそつきになりたいと言って、虚構のじぶんを何匹も生み出し、いろんなことを言わせたけれど、そんなのよわいうそつきだ。うそをつきたいなら他者の口を借りずに舌を二枚持てって思う。ひとにはひとつの同一性しか持てないと思うな。全部持って、恐れず全部の過去を切り売りしろ。人間のことはみんな好き。人間はみんな死ね。恋愛は亡びろ。恋愛はかわいい。
 どこにだって行けるし、人生はたのしい。


 最後に、でも折句をつくるのはやめないと思う。折句だからって偶然にもでてきた表現はみんなとてもとてもおもしろいし、ちょっと発表の仕方を練る。


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補足:これを書いているひとの私について
短歌的/BL的な立ち位置
・学生短歌会所属 @bit_310
・共感と萌え両用型の百合好き @13_it

BLについては見たり二次創作したりはけっこう好きだけど詳しくなくて腐女子なんですかってきかれたら「腐」って言い方は好きじゃないんですよね〜ってごまかすかんじです。
バレンタインBL短歌祭りは黒バス二次用に作ったアカウントでしています。
これはメインアカウントで恋愛の短歌をツイートしまくることへの照れとかいろいろと、あとBLアカウントにBL好きの友だちをつくろうと思ったからです。 @31_ti
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